『はじめての構造主義』感想

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

 構造主義の入門書。レヴィ・ストロースと彼の著作を中心的な題材として、構造主義に対する大まかなイメージがつかめるようになっている。中学生にも理解できるような内容をめざしたとあったが、このレベルだとかなり賢い中学生じゃないと厳しいのではないかと思われた(構造主義の本を手に取る中学生という時点でフィルタリングされているが)。特に親族関係の話などは非常にややこしく、途中で挫折してもおかしくないのではないかと思われる。私はほぼ読み飛ばした。

 構造主義がどのようなものであるかという点は割愛する。私にはうまく説明できないので。さて、この本の価値は、レヴィ・ストロースがどのようにして構造主義と呼ばれる概念を構築し得たかを、彼が出会った研究者たちの思想を通して追体験できる点にあると思う。ある分野で成果をあげた理論を他の分野に適用するという試みはよくあるものだが、その詳細な過程(推測も含まれていると思う)の解説は非常にエキサイティングであった。

 

 しかし、この手の思想全般に言えることだが、明確な定義が存在しないという非常に重大な問題点がある。以前とある社会学の講義を受けたことがあったが、ある概念について、講師が「曖昧にしておくからこそ価値がある」と語っていたことが非常に印象に残った。私はその言葉に対し、明確な定義づけをすることなく議論を進めることなどできないだろうという反感を覚えたのと同時に、対象とする「民族」や「社会」といったものが非常にゆらぎやすい性質を持っているため、それを語るための言葉もそうならざるを得ないのだろうかというある種の妥協のような感情を抱いたことを記憶している。

 構造主義に関しても、この点はおおむね同じであるようだった。この本を最後まで読み終えても、構造主義がどのようなものなのか、人に説明できるレベルには至らなかった。無論私の理解力不足もあるのだろうが、それは言葉によるカテゴライズの限界でもあり、近代的な思想の超克を目指した構造主義は、我々が用いる統一的な近代の言葉では表現し得ないものであることを示しているのかもしれない。

 

 構造主義の勃興にあたっては、言語学の発展と整備が大きな貢献をしたことが本書で語られている。言語に構造があるのは当然として、それを用いる社会の構造は、言語のそれと一致するものではないと考えられる。なぜなら、社会は多数の非言語的なやりとりから構成されており、言語は社会の一部を形作るのみだからである。

 しかし、いざそのようにして作られた社会を説明しようとすると、我々は言語以外にその手段を持ち合わせていない。したがって、社会の<構造>について我々が語ろうとすると、具体例やら比喩やらを多量に用いて、読者の実体験や記憶に訴えかけることで、なんとか非言語的なイメージを共有しようとするしかなく、それは必ずしも成功するわけではない。

 レヴィ・ストロースの研究が到底一般化できるものではなく、彼特有の名人芸のようになってしまったというのは、このあたりが理由なのではないかと思う。言語で語りえないものを語ろうとすると、語り部自身の形式知化できない部分を持ち出すしかなく、他の研究者にはそれが継承され得なかったということなのではないだろうか。構造主義はその主張によって、構造主義自身の表現力の限界をも示しているのではないかと私には思われた。