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映画『沈黙-サイレンス-』神の沈黙は人に何を語るのか - 作品の感想


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©2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved.

概要 

 キリシタン弾圧下における日本でのカトリック神父の布教を通じて、信仰と救いの在り処を問う作品です。厳しい宗教弾圧のもと、神の教えの無力さを幾度となく痛感させられた神父が、ひたすら神に問いかけ続ける姿は観賞者の心に強く訴えかけてきます。

感想

 以下には少々のネタバレを含みます。

「沈黙」の意味するところ

 「沈黙」という言葉は両面的な意味を持っています。一つは、事態を静観しそれらを半ば黙認してしまうこと。もう一つは、現状の変化を願い、ただ待ち続けること。この映画では両面の意味での沈黙を描いています。

 来日当初は熱い信仰心に燃えていたロドリゴ達神父ですが、度重なる苦難を通じて徐々に信仰に揺らぎが生まれます。キリシタンに対する迫害に対する神の沈黙が、ロドリゴやフランシスには迫害という事態の容認のようにも思えてしまいます。キリシタンに対する迫害に対し、神は沈黙を貫くばかりである。なぜ神は自分たちの信仰に対し何も応えてくれないのか。なぜこのような目にあっているキリシタンに救いを差し伸べてくれないのか。強い信仰心をもつ彼らであるからこそ、このような葛藤に悩まされます。長い間授かった教えによってその葛藤に抗おうとするも、圧倒的な現実を前にその信念は揺らがざるを得ません。

 また、ロドリゴ達神父も弾圧という現実を前に沈黙を貫かざるを得ない。自らの信念を守ろうと必死に目の前の現実を耐え忍びます。彼らには殉教というある意味での救いは与えられず、「無力な教えをそれでも守り通しますか?」とひたすら信仰を問われ続けます。自分が教えを棄てさえすれば目の前のキリシタン達は救うことができる。しかし、神の教えに背くことはできない。結論を出すことのできないロドリゴもまた、沈黙を通すことしかできません。

キチジローの弱さがロドリゴに与えた救い

 強く信仰を貫こうとする神父やキリシタンと対照的に、本作にはキチジローというどうしようもなく弱い人間が登場します。彼がロドリゴの救いとなったことは間違いないでしょう。神の教えの無力さをこの上なく味わい棄教を選んでしまったロドリゴにとって、キチジローが幾度となく神を裏切りながらも神に救いを求め続けた姿は、消えかけていた信仰にわずかな火を灯すものであったでしょう。

 そもそも、聖書に登場する人物は大抵弱い人間ばかりです。イエスの弟子達もそれは例外ではありませんし、たびたびイエスを失望させ裏切りもします。神や仲間のキリシタンを裏切りながらも信仰をやめないキチジローは、ロドリゴに新たな信仰の道を示すものであったでしょう。

結論

 スコセッシ監督自身は作品の最後に信仰という終わりのない問いに対しひとつの結論を出しています。しかし、必ずしもそれに従わなければならないというものでもなく、自分なりの結論を抱いてほしい作品であると思います。クリスチャンや他の宗教を信じるひとたちが自身の信仰生活と経験を踏まえたうえで、今後の人生のありかたについて一つのヒントを得られるような、そんな作品であると感じました。