『13の理由』構成の妙と人物描写の巧み

 ネットフリックスで配信中のドラマシリーズ『13の理由』。シーズン2の公開が予定されている本作であるが、このシリーズの魅力は、視聴者の善悪の判断や人物れの評価を揺さぶり続ける構成のうまさにあると思う。

 

 まず、シリーズ序盤では自殺したハンナについて、彼女の被害者意識の強さを強調するように描かれている。すなわち、彼女が自殺してしまったのは、彼女自身の弱さも一因なのではないか、と被害者へも非難の矛先を向けさせるような作りになっているのである。作中でも語られているように、ハンナの振る舞いにはやや演技過剰な部分があり、それが彼女の美貌と相まって、視聴者にとっては被害者にやや感情移入しづらくなるような人物造形のように思える。加害者側が被害者の行動に怒りを覚えるのは自己防衛の観点から言えばある意味理解はできるが、完全な傍観者である視聴者も、似たような感覚を覚えるかもしれない。

 現実世界で何らかの事件が発生した場合においても、被害者が潔白な生活を送っていたかどうかが格好の話題となることがある。大多数の人間は何かしら人に言えないような汚点を抱えているものであるが、日常生活においてそれが取り沙汰されることは少ない。しかし、事件の当事者になることによって、彼ら彼女らの人生全体が裁かれることになる。そして、一つでもその人生に叩きどころがある場合、彼らが被害にあったのは自業自得だとでも言わんばかりの主張が繰り広げられる。

 確かに、一連の事件においてハンナの行動に全く非がなかったかと言われれば、そうではないかもしれない。ハンナがテープの中で提示する加害者リストの中には、明確な悪人だけでなく、居合わせたタイミングが悪かったがゆえに、加害者として扱われてしまっただけの人もいる。モラルにかける行動ではあるが、人の命を奪ったという罪悪感を背負っていくには、あまりに罰が重すぎると言わざるをえないものも存在する。

 しかし、それがハンナへの非難を正当化することにはならないはずである。彼女の性格的な問題と、彼女が受けた被害とは分けて考えるべきものであり、そこに関連性を見出して自己責任論を振りかざすのは誤っている。物語が進行していくにつれて、視聴者はそのことに気付かされる。彼女がどんな人間であろうと、彼女が背負わされた苦しみは彼女の責任ではないのである。

 普段自己責任論を他者に押し付けてしまいがちな人間であっても、シリーズを視聴しつづけることによって、そのような認知の変容を迫られる。それが本作の構成の妙ではないかと思われる。 

 

 そして、最終的に自殺への引き金を引いたのは何であったのか、ということを考えなければならないと思う。

 リバティ高校にやってきてからのハンナの生活は悲惨なものであった。しかし、その多くは他人の大小の悪意によってもたらされたものであり、ハンナに責任はない。巡り合わせの悪さと、悪意ある人間によってもたらされた被害だけならば、すなわち、彼女が純然たる被害者でいられたならば、彼女の心にも自殺を思いとどまるだけの自尊心は保たれたかもしれない。あまり褒められたものではないが、人生がうまくいかないで本当に辛いときには、自分ではなく、周囲にその原因を求めることで短気的には平静を保てることもある。

 しかし、物語の終盤にいたり、彼女はある小さなミスを犯す。既にシリーズを最後まで視聴された方はおわかりかと思うが、全体からみれば本当にささいな事件である。少し迂闊だっただけの行動だが、それによって彼女は大切な人を困らせてしまうことになった。

 心が弱っているときにこのようなミスをしてしまうと、本当に心にくる。自分が実に無価値な人間に思えてくるし、この先自分が生きていても、周囲の人間に迷惑をかけるだけなのではないかとすら思えてくる。長い目で見れば大したことではないのだが、その渦中にいる当人には、そのような視点を持つことは難しい。

 そして最後の大きな事件が起きる。彼女の自尊心はついに壊されてしまい、もはやどんな慰めも届かない状況に陥ってしまった。

自尊心の崩壊は本当に重い。

 

映画『羊の木』どこまでいっても他人は他人(ネタバレ感想)

映画『羊の木』 | 2018年2月3日(土)全国ロードショー

 かつて殺人を犯した者たちと信頼関係を築くことができるのか、異質な他者を受け入れることができるのかを問う作品。以下はネタバレを含みますので、未視聴の方はご注意ください。

 様々な理由で殺人の罪を犯した六人の元受刑者たち。罪に対する向き合い方も多種多様であり、「殺人犯」「元受刑者」などのカテゴリーで人を括ることの無意味さ・虚しさであることがわかります。無論、全ての人間が悪人ではないということではありません。自らの罪に対しなんら反省の念を抱いていないものや、悪人とは言えずとも、倫理観に問題を抱えている人間もいます。ちょっとしたきっかけで簡単に我慢の効かなくなる人間など、やっぱりこの人たちは罪を犯すべく犯したのだ、またやるに違いないと思わざるを得ない場面も多々出てきます。いかに綺麗事を並べようとも、近所に殺人犯がいることに対する拭いきれない不安、ふとした拍子にあらわれる潜在下の恐怖は否定することは難しい。

 一方で、殺人犯であるという先入観を持たないで彼ら彼女らを見ると、少し無愛想なだけのよくいる人のようにも思えます。本作では、一部の人間を除いて、多くの住民は彼らがかつて殺人を犯したことを知りません。事情を知っている人間の視点、そうでないものの視点から見た人物像を織り交ぜることにより、人間というものの評価が一概に言えるものではないことを表現しています。これは殺人犯に限らず、様々な属性に対して言えることでしょう。

 

 そして、本作の最重要人物、松田龍平演じる宮腰。彼は非常に難しい人物のように思えます。彼が犯した殺人は一度きりではなく、かつて少年院に入っていたことも作中では明かされています。彼は危険な人物かと問われれば、間違いなくそうであると断言できますが、彼が根っからの悪人なのかと問われれば、そうとも言い切れない。そんな風に思わせる人懐こさや素朴さが彼にはあり、観る者の心に揺さぶりをかけてきます。これは人間の他者に対する評価の適当さや曖昧さからくるものであり、こんな人間に同情してしまう自分の人物評などあてにならないのではないかと自問させられます。

 彼は少なくとも平時は周囲の人間に対して誠実でしたし、友人である月末の裏切りも許す度量があります。それは彼が感情のないサイコだからではなく、怒りを感じつつもそれを抑えることのできる人間だからでしょう。

 しかし、その一方で罪の無い人間をあっさり手にかける異常さ、自らにとって邪魔な人間を逡巡なく殺める恐ろしさを持っています。北村演じる杉山は宮腰のことを、何も考えずに人を殺す短絡的な人間と評していましたが、その表現はまさに的を射たものであり、殺人に対する心理的ハードルの低さは恐ろしいと言う他ありません。

 彼の行動原理は常人には到底理解できるものではなく、本当の意味で他人を理解することなど不可能なのだということを思い知らされます。ならいっそのこと、超自然的な力に裁きを下してもらうのも一つの手だろう。昔の人はそうやって決めてきたのかもしれませんが、現代社会ではそれは受け入れられないのでしょうね。

 

 余談ですが、バンド演奏のギターはさすがにやかまし過ぎると思います。あれが他者には理解されない世界の演出を目指したものだと言うなら、明らかにやり過ぎです。長いししつこい。単純に音量が耐えきれるものではなかったので、もっとメロディのおかしさとかそういった表現を用いるべきではないかなと考えてしまいました。私は耐えきれずに耳を塞いでしまった狭量な人間です。一次的な刺激はどれだけ理性を働かせても耐え難いものだということも分かりました。

『アズミハルコは行方不明』ただただ古臭い - 作品の感想

アズミ・ハルコは行方不明

 女性の解放をテーマとした作品。男性による抑圧や、男性への依存からの脱却を主として、既存の価値観から自由になった女性の姿を表現している。

 主人公のアズミハルコは職場や家庭環境などから男性からの抑圧を感じつつ、それを内面化することで男性に依存するようになってしまった人として描かれている。彼女の成長と彼女を取り巻く人間模様から、自立した女性像を提示している。作品の肝であるテーマはしつこいほどに表現されていて、メッセージ性は強く感じました。 

 

 しかしいかんせん、若者の描き方がかなり古臭い。女子高生とかお馬鹿大学生とか、あんなのゼロ年代でも若干の加齢臭を感じるような表現だと思います。ファッションのダサさは既存の価値観からの逸脱として解釈すれば正当化されるとしても、女子高生ギャングは一種のカリスマとして、カッコよさを感じさせる存在じゃないといけないのではないかと思いました。あれではちょっと憧れの対象にはなりえないのではない。ファッションのダサさは既存の価値観からの逸脱として解釈すれば正当化されるのかもしれませんが、それにしてもダサすぎる。センスがオッサンのそれに近く、むしろ男の臭いを感じさせる。

 高畑充希が演じる女性のお馬鹿っぷりもしつこい。あそこまでやらなくても軽薄で他者依存心の強い人間は表現できるのではないかと。役者本人の演技は良かったと思いますが、キャラクター臭が強い。

 また、アズミハルコの同僚の女性のエピソードにもやや疑問を感じます。彼女はフランス人男性と結婚するということを高らかに宣言し職場を去っていきましたが、それは既存の価値観からの脱却ではなく、既存の枠組みのなかで勝利を収めたに過ぎないのではないかと。男性支配から勝利するためにフランス人男性という属性の威光を借りるのでは、作品のテーマに沿っていない気がするのですが、その辺りどういう考えなのかが気になります。

 アズミハルコが真に抑圧からの脱却を成し遂げた人として描かれているので、彼女と対比させる意味合いもあるのかもしれませんが、それでは職場の男性による抑圧(というか完全にセクハラ)の被害者である彼女に救いがないなあと感じてしまいます。

 

 全体として、描きたいテーマはハッキリしているのだけれど、基本的に役者頼りで表現力が追いついていないという印象を受けました。時間軸のシャッフルもあまり意義を感じず、視聴者を混乱させる以上の効果は無かったのではないかと思います。

 スマホ(LINE)が出てこなければ、そういう時代設定なのだと納得することもできたのですが、何から何まで古臭さを感じさせる小道具ばかりが出てきて、疑問符ばかり湧いてきて没入することができませんでした。

『はじめての構造主義』感想

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

 構造主義の入門書。レヴィ・ストロースと彼の著作を中心的な題材として、構造主義に対する大まかなイメージがつかめるようになっている。中学生にも理解できるような内容をめざしたとあったが、このレベルだとかなり賢い中学生じゃないと厳しいのではないかと思われた(構造主義の本を手に取る中学生という時点でフィルタリングされているが)。特に親族関係の話などは非常にややこしく、途中で挫折してもおかしくないのではないかと思われる。私はほぼ読み飛ばした。

 構造主義がどのようなものであるかという点は割愛する。私にはうまく説明できないので。さて、この本の価値は、レヴィ・ストロースがどのようにして構造主義と呼ばれる概念を構築し得たかを、彼が出会った研究者たちの思想を通して追体験できる点にあると思う。ある分野で成果をあげた理論を他の分野に適用するという試みはよくあるものだが、その詳細な過程(推測も含まれていると思う)の解説は非常にエキサイティングであった。

 

 しかし、この手の思想全般に言えることだが、明確な定義が存在しないという非常に重大な問題点がある。以前とある社会学の講義を受けたことがあったが、ある概念について、講師が「曖昧にしておくからこそ価値がある」と語っていたことが非常に印象に残った。私はその言葉に対し、明確な定義づけをすることなく議論を進めることなどできないだろうという反感を覚えたのと同時に、対象とする「民族」や「社会」といったものが非常にゆらぎやすい性質を持っているため、それを語るための言葉もそうならざるを得ないのだろうかというある種の妥協のような感情を抱いたことを記憶している。

 構造主義に関しても、この点はおおむね同じであるようだった。この本を最後まで読み終えても、構造主義がどのようなものなのか、人に説明できるレベルには至らなかった。無論私の理解力不足もあるのだろうが、それは言葉によるカテゴライズの限界でもあり、近代的な思想の超克を目指した構造主義は、我々が用いる統一的な近代の言葉では表現し得ないものであることを示しているのかもしれない。

 

 構造主義の勃興にあたっては、言語学の発展と整備が大きな貢献をしたことが本書で語られている。言語に構造があるのは当然として、それを用いる社会の構造は、言語のそれと一致するものではないと考えられる。なぜなら、社会は多数の非言語的なやりとりから構成されており、言語は社会の一部を形作るのみだからである。

 しかし、いざそのようにして作られた社会を説明しようとすると、我々は言語以外にその手段を持ち合わせていない。したがって、社会の<構造>について我々が語ろうとすると、具体例やら比喩やらを多量に用いて、読者の実体験や記憶に訴えかけることで、なんとか非言語的なイメージを共有しようとするしかなく、それは必ずしも成功するわけではない。

 レヴィ・ストロースの研究が到底一般化できるものではなく、彼特有の名人芸のようになってしまったというのは、このあたりが理由なのではないかと思う。言語で語りえないものを語ろうとすると、語り部自身の形式知化できない部分を持ち出すしかなく、他の研究者にはそれが継承され得なかったということなのではないだろうか。構造主義はその主張によって、構造主義自身の表現力の限界をも示しているのではないかと私には思われた。

『幼年期の終わり』進歩の先にあるものは

ストーリー(ネタバレ)

 圧倒的な科学力を持った異星人(オーバーロード)が地球にやってくる話。彼らは地球を侵略するわけでもなく、何かを要求するわけでもなく、ただ地球の管理者・裁定者として存在するのみである。彼らはやがて人類にテクノロジーを提供するようになり、単純労働から開放された人類は創造性をいかんなく発揮し、黄金時代を迎えることになる。

 しばらくときが経ち、人類に異変が起こる。超自然的な力に目覚めた子どもたちが誕生するようになり、幼年期を終えた人類は集合的な存在として、新たな生命体へと進化を遂げる。オーバーロードの目的は人類の進化を見守ることにあり、戦争や疫病などで、進化の前に人類が滅びることのないように保護することであった。

 彼らは人類の進化を見届けたあと地球を去っていく。科学が到達しうる限界にまで到達してしまった彼らには、もはや種族としての伸びしろは無く、地球を去る彼らの姿には、人類に対するある種の羨望のようなものが感じられた。

 

 

感想

進歩の喜びと虚しさ

 以上がざっくりとした筋書きです。以下に感想を述べていきたいと思います。

 さて、本作で描かれる人類は、与えられたテクノロジーによって栄華を極めたあとに超自然的な進化を果たすわけですが、現実の人類がそのような発展の段階を踏むことはおそらく無いといってよいでしょう。では、本作で描き出そうとしているものは何なのか。大幅な人口減や知識の喪失などがなければ、人類は科学的に順調な進歩を遂げていくと思われますが、その先にはいったい何があるのでしょうか。

 私としては、本作の中心的なテーマは人類の進化にあるのではなく、むしろ種族としての伸びしろを失ってしまったオーバーロードが何を指すのかという点にあるのではないかと思います。つまり、本作で描かれるオーバーロードこそが、人類の遠い未来の姿なのではないかと語っているように思うのです。

 現代の社会を突き動かす原動力は経済の拡大とテクノロジーの進歩にありますが、それはその先に豊かな未来があるはずという希望に拠るものです。現状への不満と目指すべき社会という目標があるからこそ、ヒトは進歩を目指すのであり、結果的にテクノロジーの発展の加速度は増すばかりです。すでに今生まれてきた人間が寿命を迎えるまでにその歩みが止まることはないでしょうが、数百、数千、数万年後の未来はどうでしょうか。理解できない現象などほとんど無くなり、解くべき問題をあらかた解きつくしてしまったとき、人類は何を目標として生きていくのでしょうか。

 本作では、人類の創造性と芸術の勃興などを通して短期的な進歩の素晴らしさを説く一方で、長期的な進歩の先にたどり着く虚しさのようなものも描かれています。そして、そこから現代の不完全な社会をある意味では肯定するような、相対主義的な見方を提示しているのではないかと思います。

 

もう少しスケールを小さくして

 先に惑星・人類レベルでの感想を述べたうえでなんですが、国家・民族レベルの話もしておきたいと思います。

 本作では、人類はオーバーロードから自分たちがいまだ到達していない圧倒的な科学力を授けられるのですが、これは現代の途上国と先進国の関係と言えるかもしれません。もちろんオーバーロードのある意味では利他的な行動と異なり、先進国の技術提供は、そこから利益を得る目的があるという大きな違いはあります。

 しかし、いきなり一足飛びのテクノロジーを一方的に与えられるという状況だけみれば、構図としては同じかもしれません。というか研究者・開発者と消費者の関係も似たようなところがあります。プロセッサーやメモリ、光学の原理なんて知っている人はごくわずかです。突然スマートフォンなんていうおかしな道具を与えられ、わけもわからずそれを利用して生活の質を向上させるという点では本作における人類と、消費者としての我々との間にさしたる差異は無いのかもしれません。また、科学研究に携わる人々も、専門とする分野以外では消費する側に回る人がほとんどでしょうから、人類は互いに原理の分からないテクノロジーを与え合う関係とも言えるでしょう。

 すなわち、本作において、与えられたテクノロジーによって人類が体験した黄金時代の栄華を、今まさに我々も体験しているところなのではないかと考えることも可能ではないでしょうか。大分飛躍はありますが、ここからも、筆者の現代人類への肯定感のようなものが垣間見えるように思います。

 

おわりに

 この辺の問題が情報科学の分野でどのように議論されているのかが気になるところです。何らかの環境が与えられた際に、その環境について解くべき課題は無限に存在するのか否か。直感的にはそんなものいくらでも作り出せそうな気がしますが、それらの課題のうち、実際に解くまでもなく解けたとみなしてよいものを除いた場合、実質的に有限である可能性もあるかもしれません。

 対象とする環境を拡張できればこの問題も解決されるかもしれませんが、拡張した結果の環境がフラクタルようなものであれば、やはり課題を増やすことには貢献しないようにも思えます。環境というのは人類にとっては宇宙としてもよいと思いますが、そもそもこれ以上の拡張が可能なのかどうかも素人の私には分かりません。

 

 人類がいつか科学に飽きる日が来るのでしょうか。労働生産性の議論が盛んな昨今ですが、いつか何を目的とすべきかという議論をしなければならないときが来るのかもしれません。私はスマホゲーに飽きるとかその程度の知的レベルなので知ったこっちゃありません。テクノロジー万歳!

『山田孝之のカンヌ映画祭』ワナビ狂騒曲 - 作品の感想(ネタバレあり)

 

  『山田孝之東京都北区赤羽』に続く、ドキュメンタリー風作品。今作では、山田孝之山下敦弘のコンビに加え、なんと芦田愛菜さんが登場。山田孝之に振り回されオロオロする山下監督に対し、山田孝之に心酔し、彼についていく芦田さんの姿が対比的で面白い。

 

 あくまでカンヌにこだわり、パルムドールをとらなければ意味がない、それ以外には何の価値もないとでも言うような山田の態度に対し、山下は困惑しつつも彼の夢の実現に力を貸します。

 いわゆる「頭の中にしか存在しない名作」にこだわり、完成された作品を作り上げるためのスキルを持ち合わせていないワナビを皮肉っている。曖昧模糊とした自身の理想にそぐわないものは無価値と断じ、いつまでも作品を完成させることのできない悲しい人間の姿が描かれています。本作の面白いところは、夢見がちなワナビの役を、俳優としての実績や実力は抜群な山田が演じているところ。つまり、全く何も成し遂げたことがない人間の滑稽さを描いているのではなく、映画に関わった経験がありながらも、求められる役割を全く果たせていないズレ感に可笑しさがあります。

 映画のプロデューサーとしての実績はまだない(という設定)山田が、俳優としての成功をプロデューサーとしても活かせるはずと勘違いしている様が悲しく映ります。特定の分野で成功したからといって他の分野でもうまくいくとは限らないのですが、人は別の分野での成功体験を引きづって大怪我をしてしまいがちです。俳優はいわば、整えられた環境のなかでいかに素晴らしいパフォーマンスを発揮できるかが勝負な仕事ですが、他の人が最大限の力を出せるように環境を整えてあげる側のプロデューサーとでは、求められる能力も全く異なります。そこの差に気づかぬまま、山田は自身のクリエイティビティで現場を混乱させてしまう人間として表現されています。

 

 一方の山下監督はまさに気配りの人間として描かれています。役者達に最大限気を配り、山田の無茶振りをなんとか形にしよう、ひとつの作品として完成させようと奔走します。その気配りが山田には妥協の産物としか映らないようで、次第に意見の対立が表面化していきます。それがピークに達するのが撮影初日。自身の謎のこだわりで撮影スケジュールを無茶苦茶にしようとする山田を山下はなんとかなだめようとしますが、現実的な予算の限界を持ちだして説得しようとする山下を山田はクビにしてしいます。山田にとっては、作品にかけられる予算もスタッフや役者のスケジュールも「どうにかなるもの」でしかなく、自身の理想に優先するものではありませんでした。

 

 山下監督の苦労をみていると、ちまたに蔓延る駄作も、駄作と自覚しつつもなんとか完成にこぎつけようとするスタッフの奮闘があるんだろうなという気持ちにさせられます。

 そして『山田孝之 3D』本当に作っちゃったんですか。「このお話はフィクションです。」的なものかと思ってたんですが、やはりもうひとひねりいれてくるところが山田孝之って感じですね。

「映画 山田孝之3D」6月に公開!山下敦弘監督メガホン、芦田愛菜が友情出演 : 映画ニュース - 映画.com

映画『モールス』感想 - 吸血鬼と人間の共生

 

モールス (字幕版)

モールス (字幕版)

 

  ちょっとグロめの吸血鬼のお話。人間が寝ている間にちょこっと血液をいただくような紳士的なやつではなく、肉ごと貪り喰らう残酷な不老の存在として描かれています。

 吸血鬼役の少女(実はババア)を演じるのは、『キック・アス』シリーズなどで有名なクロエ・モレッツ。真冬のニューメキシコを舞台に、残酷かつ美しい少年少女(ババア)の物語が描かれます。主人公のオーウェンは、学校で上級生からいじめを受けているおとなしい少年。母親と二人暮らしの彼の近所に、神秘的な雰囲気をまとった少女(アビー)が引っ越してきます。少女は父親らしき男と二人で越してきたようですが、何か秘密を抱えている模様・・・。といった感じで物語は進行していきます。

 雪深い田舎町という閉鎖的な環境のもとで、学校にも居場所を見いだせない彼の目には、どこかこの世のものでないような雰囲気を漂わせる少女は、なんとも目の離せない魅力を放っていたことでしょう。一方の少女も吸血鬼であり、目立たぬように生活することを強いられる状況。孤独感に苛まれる二人は、自然と仲を深めていきます。

 物語のなかで、少女と共に越してきた男は父親ではなく、彼女の恋人であったことが推察されるわけですが、老いることのない恋人の隣で、一人年老いていく男の絶望感は相当なものであったことでしょう。生存のために多量の血を必要とするアビーにとって、人間に目をつけられずに生きていくには、人間の協力者が必要不可欠です。自分のために多数の人間を殺し、その隠蔽を行うことに身を捧げるという行為は、愛を通り越して狂っているとしか言いようがないでしょう。

 初まりは恋や情愛であったかもしれませんが、そのような生活を長年続けていくうちに、二人の関係が徐々に変化していったであろうことは容易に予想できます。男は最後までアビーの身を案じ、自らの命を絶つまでに至ったわけですが、そこには愛する者のための自己犠牲だけではない、何か義務感や脅迫感のようなものものに突き動かされているような印象を受けました。アビーと共に生きていくことは、人の道を外れるということであり、愛だけでは語り尽くせないものがあっただろうと考えられます。

 アビーに恋をしてしまったオーウェンも、彼女と共に生きた男の結末をおおむね理解していたはずです。それでもなお、アビーと二人で生きていく決意をしたオーウェン。彼は、最後いじめっ子に襲われ命を落としかけたところをアビーに救われるわけですが、彼の心には人智を超えた存在に対する畏敬の念のようなものも芽生えていたのではないかと思います。自分が置かれていた逃げ場のない状況を、圧倒的な力で蹂躙していくアビーの姿を目の当たりにした後に、対等な立場で恋愛関係を維持するというのは少し考えづらいようにも感じられます。

 吸血鬼には一種の催眠のような、人を魅了する能力があるとする伝承もあるようです。オーウェンや、アビーの為に命を落とした男もまた、自発的に彼女と生きていきたいと考えるだけでなく、彼女の暗示にかけられ虜になってしまったのではないか、などと考えてしまいました。オーウェンは彼女に恋をしていただけでなく、彼女無しでは自分は生きていけないとでもいうような心理状態にあったのかもしれません。

 オーウェンや彼女に身を捧げた男は、孤独で口が固く、アビーにとって寄生するにはもってこいの人物像といえるでしょう。綺麗な面だけを見れば、誰にも離せない秘密を抱えた共に抱えた禁断の恋のようでいて、実態は異生物同士が生き抜くために共生関係を築いているだけ、というような見方もできるのではないかと思います。

映画『モールス』予告編 - YouTube